

インタビュー

眩しくて目が開けられないネジ家族
ー まずは簡単な生い立ちを教えてください。
茨城と青森のハーフなんです。親が成田空港で出会って僕が生まれて、千葉で生まれ育ちました。
今でこそこういう明るい感じですけど、小さい頃は授業中手もあげられないくらい赤面症で、そういうのがすごく嫌でなりたい自分みたいなものに近づこうとちょっとずつ改善していって変わってきた感じです。中2で生徒会副会長になって、野球を高校までやってました。
ー 僕とちょっと似てますね。僕も人生で何度か大きなきっかけがあって今みたいな人間になってるんですが、ネジ君は何か大きなきっかけとかありました?
高卒で就職したんですが、19歳の時に急に弟が「お兄ちゃんバーテンになれば」って言い出して、「それイイね!わかった」って(笑)
働きながら、実家の部屋をバーにしてバーテンゴッコをしてたんです。21歳の時に初めて海外旅行でバリに行ったら凄い良くて、俺の人生こっちだ!と思って脱サラしちゃいました(笑)
ー スポンジみたいな性格ですね(笑)じゃあ、バリから人生が変わり始めたと?
そのままバリに住もうかとも思ったんですけど、ただバリしか知らないからとりあえず世界中見たほうがいいよなと思った時に、たまたま新聞の広告欄にピースボート(世界一周の船旅をはじめ、国際交流の船旅をコーディネートするNGO)のことが載ってて。これは乗れってことだなと思ってその半年後にはもう船に乗ってましたね。

別府駅前にて
ー 思い付いたら即行動の人なんだね。
そうですね。それで20カ国を3ヶ月半ぐらいで周って。それがその後の人生に影響を与えてるので、大きなきっかけだったと思います。船もデカくて僕らの時は1000人以上乗ってたんですよ。
自分らみたいに金がない人がなんで乗れたかって言うと、ピースボートってボランティアスタッフ制度ってのがあるんですね。PRのポスターあるじゃないですか。あれをお店に頼んで貼らせてもらうんですけど、許可もらってポスター3枚貼ると船賃が1000円割引になるんですよ。それで半年で110万くらいポスター貼りで貯めてなんとか乗れることになったんですよね。
今「ネジ」って名前を名乗ってるんですけど、そう呼ばれるようになったのもピースボートがきっかけですね。
ー ネジは自分で付けた名前?
19歳の時に自分でつけた名前ですね。ヒップホップがすごい好きで、ラップやろうってなった時に流れで付けた名前です。
就職先の工場を見まわした時に思ったんです。「ネジってすげー」って。工場、車、パソコン、携帯、あらゆるものを繋いでるなって。オスとメスがあって、ネジ切りがしてあって、ただただ真っ直ぐ。すごく単純でシンプルで力を誇示せず何かと何かを繋いでいる。そんな力を持った人と人を繋ぐ「ネジ」になりたいと思って19歳の時に名乗りました。
当時はそんなに呼ばれることもなかったんですが、ピースボートってあだ名文化があるって聞いたんですよね。「元カレ」ってあだ名のやつがいたり(笑)それで自分でネジのロゴ作って持っていったんですよ。そしたら「それなんですか?」って聞かれるわけです。「僕、ネジになりたいんですよ」って言うと「あぁ、この人はおかしな人だ」って顔をされるんですけど、それが心地良いというか。

海門寺公園にて
ー 名前って人のアイデンティティを決める最初のきっかけだと思ってて。僕もそうだけどなりたい自分を強く意識する人ほど、あだ名や通称をつけたくなるのかもしれないよね。変態になりたい!って思うがあまり「東京神父」や「ネジ」っていうおかしな名前を付けるっていう(笑)
その通りだと思います。渡邊健太がなりたいネジ像っていうのがあって、そう呼ばれる度に僕の中でアイデンティティが変わっていったのはあると思いますね。

すべり台で遊ぶ縁君
ー ピースボートというきっかけで世界を旅して、ネジというアイデンティティが生まれたのが23歳くらいってことだよね?
そうですね。世界を見たことも大きな刺激になりましたけど、自分に自信が持てるようになったことが大きかったですね。僕は元々環境問題とかにも関心があって、ピースボートでさらにその想いが強くなって、原発問題とかそういうことに人生を捧げるようになっていくんですね。

足がソックリなネジ家族
ー 原発に関しては具体的にどういう活動を?
核燃料サイクル事業って言うんですけど、「原発・再処理・高速増殖炉」って3つの工程があるんです。この再処理工場ってのが青森県の六ヶ所村に建設されていて、ここの本格稼働だけはどうしても止めたかった。(当時は信じきってましたが、今はそれが正しいのか僕にはわからないと言う結論に至る)
反対の署名を集めたり、パレードやイベントなどをして反対の声を高める活動をしていました。

自由に生きるネジ君
ー その後、どうして宮崎に住むことになったのかな?
2011年の東日本大震災がきっかけです。
福島第1原子力発電所が津波被害に遭い、僕はリアルタイムで放射能数値が確認できるサイトを凝視していました。3月14日の23時ごろ、そのサイトで茨城県の観測数値が80倍くらいに跳ね上がった瞬間を見てしまったんです。急いで身支度をして、翌15日の朝方にあても無く西へ西へと避難しました。知人の情報を頼りに、すがる思いで辿り着いたのが宮崎県の最南端の山の中でした。

別府北浜にて
ー 宮崎に移住してからはどんな生活を送ってました?塩を作ることになった経緯も知りたいです。
千葉からあてもなくやってきた僕たち家族を家に招き入れて下さった家族がいたんです。「ネジ、いっしょに働いてくれない?返事は3日後に頂戴」っていきなり言われました(笑)彼はちょうどNPO法人を立ち上げ、一緒に働く仲間を探しているタイミングだったんです。それで家族にろくに相談する事もなく「う、うん!!」と決めてしまいました。
ー 本当に思い付いたら即行動だね。
その場所が吉田好男さんと言うお爺さんが開いた無農薬みかん山で、仲間たちと塩釜を作り塩を炊く文化があったんですよ。そのやり方を習い、宮崎に来た瞬間に塩職人になっていました(笑)
NPOスタッフは1年で卒業し、その後は独立して個人で塩を作り続けています。今は子宝に恵まれて、息子が3人になり、充実した毎日を過ごしていましたが4年前に離婚して、今は3児のシングルファザーですね。塩職人は太平洋が在庫なんで、マイペースに息子達と楽しく生活しています。

撮影でお世話になった坂井慎一さんと一緒に