インタビュー

普段はバドミントンはやっちゃダメです笑



ー まずは勝さんの簡単な生い立ちを教えてください。

正光:大阪に生まれて父の転勤で幾つかの街を転々としましたが、高校卒業時点ではまだ大阪にいました。美大を目指して1年浪人して、武蔵野美術大学に合格したのを機に東京に上京し、ムサビでは空間演出デザイン学科で勉強しました。「皮膚から少しでも離れたら空間だ」っていう名目でファッションデザインコースなんかも一緒で、色んな分野で活躍している先生がいましたね。
僕は杉本貴志っていう、無印良品を立ち上げたデザイナー集団の前トップみたいな方のゼミに入ったんですけど、この方は伝説のグラフィックデザイナーと言われる田中一光亡き後にトップを引き継いだ方なんです。ちなみに田中一光という方は西友の一ブランドとして無印良品を立ち上げた人なんですよ。
で、ゼミに入った当時はポンコツの落ちこぼれだった僕が、卒業制作でゼミ賞を取って。同級生からは「逆転ホームラン」って言われました(笑)それでアーティスト活動を始めるようになりましたね。

ー 僕もデザインするので、めちゃくちゃ興味深い話です。

正光:アーティスト活動を始める人は大概油絵科出身なんですけど、僕は少し迂回した形で、何をしたらいいかもよく分かっていなくて、美術手帖とかを読み漁ってました。当時、村上隆がやってた若手登竜門的なコンペティションに応募したんです。確か10回目で審査員が佐藤可士和藤本やすしとかの時に、銅賞と可士和賞と電通賞をトリプル受賞したんですね。


女風呂で特別に混浴



ー す、すごい。。

正光:人生で一番のハレの日でしたね(笑)
それで、村上さんや可士和さんと話して、現代美術を売り買いするアートフェアに出品することになるんですね。世界中のセレブが美術品を買いに来るんですよ。スターウォーズに出てくるような格好で下乳出てる人しかいないみたいな空間です(笑)マイアミなんで12月だけど海に入れるみたいな場所で。
そこに2年作品を出してたんですね。若手だけど3日間で200万売れるみたいな。


大平由香理さんが描いた壁画(男湯)



ー その当時からスタイルって変わってないんですか?その鉛筆画というか。

正光:そうですね。受賞した作品も2m×8mの紙を鉛筆で描いたって分からないくらい鉛の板みたいにしてしまうっていう作品でしたね。当時は筆圧で手動エンボス的な表現をする作品が多かったですね。

ー なるほど。確かにそれは面白いですね。でも、なんで鉛筆だったんですか?

正光:一番自信があったのが鉛筆だったからですね。ただ、鉛筆画は身体に負担がかかるんですね。自分の家の椅子でエコノミー症候群になってしまったり、体調を崩してしまって。病院の先生から「こんな生活続けたら死にますよ?」って言われたり。
鉛筆画しかないと思っていたのに、それが続けられないと知って、鬱っぽくなってしまって。
それが1年くらい続いてたんですが、当時のアーティスト仲間が別府でアートフェスをやるから来ないか?と誘ってくれて。鉛筆だけ持って来たんですよ。別府でもひたすら描いてたんですが、その時によく現れる変なおじさんがいて。こっちが絵を描いててもお構いなしで入ってくるんですよ。人によっては煩わしく思うでしょうけど、僕にはそれがとても心地よくて。今まで作品を描いて、ギャラリーに展示して、アートフェアで売るみたいな生活に窮屈さを感じていたんですが、その生活から抜け出せる感覚があったんですよね。「この街で美術をやってみたいな」と素直に思ったんですよ。

ー もしかして、そのおじさんって。。

正光:山本さんですね。


大平由香理さんが描いた壁画(女湯)



ー やっぱり。
山本さんもインタビューで勝さんのこと話してましたね。ある意味、山本さんに救われたってことですかね?


正光:そうですね。今考えると、あの時別府に来ていなかったらと思うとゾッとしますね。

ー それって「混浴温泉世界」の時ですよね?

正光:そうです、そうです。芹沢高志さんがプロデューサーの混浴温泉世界の一回目で。22部屋というスペースに132組参加するっていう、カオスな場所になったのが今の清島アパートで。最終日には一日中行列が出来るほどの熱気でした。参加されていた大友良英さんなんかは「これは展覧会じゃなくて、ライブだ」と言っていて、そんな大御所がいてもそれが「ライブの一部」になってしまうような凄い空間で。


日によってはかなり熱めの温度



ー その頃、僕はまだ別府に全く帰ることがない生活をしていましたが、凄いイベントだったというのは聞いてます。

正光:それを目の当たりにした時に、イベントが終わったらはい終わり、ってのはあまりにもったいないと思って。東京に帰るイメージが全然湧かなくて、最初に住みたいって手を挙げました。覚悟を伝えたかったので、途中で東京に帰って家を引き払って「もう帰る所ないです」と言って(笑)事務局としては最初は「どうなの?」と思っていたらしいんですが、最終的には「BEPPU PROJECT」が引き続き運営するアーティストアパートとして続くことになったんですね。


「命の湯らめき」詳しくはメイキングにて



ー 凄い話ですね。勝さんはそんな経緯で別府で鉛筆画家としてやっていくことになり、末広温泉の組合長になっていくわけですが、今度は奥様の生い立ちも聞かせてください。

珠真子:長崎県島原市出身で、父の転勤で県内を転々としていました。高校卒業と同時に福岡に出て、学生を経て社会人をやってました。福岡ではバンドをやったりしていて、その時に対バンした大分のバンドに声かけられて、2つのバンドを兼任することになり、福岡と大分を行き来することになります。
大分で面白い人達に出会って、大分って素敵だなーと思うようになりました。高速から見える由布岳の青さとか、葉っぱの落ちた冬の木々とか、海の広さとか、地形の堂々さにも惹かれて。
ただ色々あって、2010年の8月にちょっと精神的に病んでしまって実家に帰ることになります。そんな中でしたが「この町に住みたいな」という純粋な私の夢を叶えるために、3〜4ヶ月に1回は大分に遊びに来ては土台作りにと人脈を広げてました。2012年の6月に大分で仕事が決まって、最初は大分市に引っ越してきました。


仲のいい二人



ー 別府が好きで引っ越してきたというわけじゃないんですね。

珠真子:そうですね。最初は大分も別府もよく分からない感じで。その後、転職の都合もあり日出に引っ越したんですが、2014年から別府で働くことになって。別府の友人達といるのが楽しくてだんだん日出の家に帰らなくなってしまって(笑)
神父さんもご存知だと思いますが、別府は1人繋がるとどんどん仲良くなっていくので、それで清島アパート界隈の方達と仲良くなっていって、かつくんにも「誘ってください」って言ってみんなで遊んでました。

ー そこで最初は友達として勝さんとも出逢うんですね。

珠真子:そうですね。色々アートにも詳しいし、みんなで飲みに行ったりするのが楽しかったですね。それで、2015年に別府に引っ越してきました。

ー 勝さんが清島アパートだから、末広温泉の辺りってことですよね?

正光:すまちゃんはどんどん末広町の人達と仲良くなって、当時から自治会活動とかにも参加してましたね。

珠真子:石垣さんという私の母と同世代の方が住んでいる持ちビルの3階のすみっこを間借りして住んでいました。私が「住まわせてください」とお願いして。石垣さんは恩人ですね。


撮影したのは再開した頃



ー 人間力があるというか、お二人とも本当にたくましいですよね。

珠真子:その時、36歳で生き方を見つめ直すみたいな期間にしてましたね(笑)

ー 友達だった2人が住む場所が近くなったことで、恋人関係に発展していくことになるんですね?

珠真子:4年くらい友達だったんですけど、2016年の夏くらいに付き合うようになりました。尊敬と気楽が混ざり合ってる感じです。

正光:別府では生活の中で美術をやるってことを考えたかったから、まずは市民権を得たいって想いがあったので、自治会などにも積極的に参加していたんですね。清島アパートのことも近所の方に宣伝したりとか。すまちゃんは美術も好きで、お爺ちゃんお婆ちゃんも好きで、色々と関わってくれていたので、自然と一緒に活動することが増えていって、気が付けば「2人の将来が見えた」って感じでしたね(笑)

ー なるほど。燃え上がるような恋もいいですが、気が付けば側にある愛も素敵ですね。

珠真子:今までせかせかした人生を生きてきたんですよね。でも、別府では何かに追われて生活してる感じがないので、生活自体が「ゆったりとした愛」みたいな感じで。その時間を共有していたのがかつくんだったから、自然と愛情が芽生えたのかもしれないですね。



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